
中央アジアって聞くと、砂漠?草原?シルクロード?……なんとなく「通り過ぎる場所」みたいなイメージを持っていませんか?でも実は、帝国の十字路であり、多民族と多文化が重なり合った超ダイナミックな地域なんです。
つまるところ中央アジアは、「遊牧文化」「イスラム文明」「帝国と植民地支配」の交差点として育まれた、歴史的にも地政学的にも重要な地域なんですね。この記事ではその特徴と成り立ちを、地理・歴史・文化の視点から見ていきましょう!
中央アジアの地理的範囲を示す地図
まずは「中央アジアってどこのこと?」という話から。意外と境界があいまいに思えるかもしれませんが、国際的にははっきり定義されているんです。
![]() ウズベキスタン |
![]() カザフスタン |
![]() キルギス |
![]() タジキスタン |
![]() トルクメニスタン |
中央アジアにはカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタンの5か国が含まれます。いずれも1991年にソ連の崩壊に伴って独立しました。
さらにこの5か国に加えて、国連など公的機関が南アジアに分類しているアフガニスタンが、文化的・地理的観点から中央アジアに分類される場合もあります。
東は中国(新疆ウイグル)、西はカスピ海、北はロシアのステップ地帯、南はアフガニスタンやイランに接しており、天山山脈、パミール高原、カラクム砂漠など自然地形のコントラストもすごいんです。
キルギスの遊牧民文化を象徴する騎馬競技「コクボル」の様子
中央アジアの成り立ちを語るうえで欠かせないのが、遊牧民の文化と、シルクロードを通じた交易の歴史です。
カザフ人、キルギス人、ウズベク人など、多くがトルコ系の遊牧民族を祖先に持っています。馬を操る技術、移動式住居(ユルト)など、移動しながら暮らす知恵が根づいています。
ブハラ、サマルカンド、ヒヴァなどの都市は、シルクロードの中継地として古くから栄えました。ここではイスラム学問、建築、美術などが花開き、ペルシャ文化や中国文化とも融合しました。
ウズベキスタン・ブハラ旧市街にあるイスラム建築の一例
出典:Photo by Arian Zwegers / CC BY-SA 2.0より
中央アジアは7世紀以降イスラム教が浸透し、やがてモンゴル帝国やティムール帝国といった巨大な支配者たちの舞台にもなっていきます。
9世紀以降、中央アジアはイスラム文化の学問拠点に。数学・天文学・医学などで有名なアル=フワーリズミーやイブン・スィーナー(アヴィセンナ)もこの地の出身です。
13世紀にはモンゴル帝国が進出し、その後ティムール(ティムール朝)がサマルカンドを中心に一大帝国を築きます。中央アジアはただの“通り道”ではなく、文明の中心だったんですね。
1868年、ロシア軍がサマルカンド(ウズベキスタン)に入城する様子を描いた絵画
出典:Wikimedia Commons / Public Domainより
19世紀後半、中央アジアはロシア帝国に編入され、その後ソビエト連邦の一部として近代化と統制の波にのまれていきます。
ソ連時代に民族ごとに「共和国」を割り当てる方針が取られましたが、実際の民族分布とは合っていないことも多く、これが現代の国境問題やアイデンティティの混乱にもつながっています。
ロシア語が公用語化されたり、イスラム信仰が抑制されたりと、文化面でも大きな影響が残りました。現在でもロシアとの経済的・文化的な結びつきは強いです。
今の中央アジアは、豊富な地下資源・水資源・戦略的な立地を活かして、中国・ロシア・欧米の狭間で存在感を増しています。
天然ガス(トルクメニスタン)、石油(カザフスタン)、ウランなど、資源が豊富。これらをどこへ輸出するかが地政学の焦点にもなっています。
中央アジアは一帯一路(中国)やロシアの影響圏にも含まれ、インフラ整備・経済回廊・鉄道などを通じて「東西・南北をつなぐ要所」として注目されています。
中央アジアは、砂漠と草原のただの「通り道」じゃありません。遊牧、帝国、宗教、交易、植民地といった要素がギュッと詰まった、多層的で面白い地域なんです。それぞれの国が抱える歴史の重なりを知ることで、この地域がどれだけ世界の中で重要だったかが、きっと見えてくるはずです。